火の神話学 第7章 芸術と火
### 「二重の炎」
文学は人間の情念を描く。それは日本の文学であれ、西洋の文学であれ、変わりはない。そして情念が火の喩えで語られることも、洋の東西で違いはない。
ふむ。
パスは言う。
「性愛というのは本源的で最も重要な火にあたるが、そこからエロディスズムの赤い火が生まれてくる。そして、エロティシズムの赤い炎に支えられてもう一つの青く震える炎が立ち上っているが、それが愛の炎である。エロティシズムと愛、この両者がすなわち生の二重の炎である。」
詩とエロティシズムの根底にあるのは、想像力である。エロティシズムは単なる動物的な性愛ではなく、儀式あるいは演技なのだ。だからそれは「変容した性にほかならず、その意味では隠喩である」。
このようなエロティシズムと性愛の関係は、詩と言語の関係に似ている。詩の言葉は、言語の本来的な目的である伝達機能から逸脱している。記号論で言う”詩的言語"とはそのことを指している。つまり、「エロティシズムが生殖をカッコでくくったように、詩もまた伝達の機能をカッコの中に入れてしまうのである」。
「カッコに入れる」とは、抽象化。一段階、メタ化するということ。
生殖機能をエロという表現に昇華するためには、「カッコに入れる」必要がある。
『『進撃の巨人』』でも考察したが、残酷表現も同様。暴力は動物的であり、残酷は隠喩なのだ。 余談だが、海外の人がよくやるジェスチャーに、両手をチョキの形にして立てた2本の指をワキワキする、というものがある。これはダブルクォーテーションマークを意味しており、このジェスチャーを行いながらの発言は、その内容を「カッコに入れた」ものですよ(そのように理解してくださいね)、という意味となる。単に引用の場合もあるが、つまるところメタ化しているわけだ。
ふと気づいたが、日本人の口語にそのようなジェスチャーなり表現はあるのだろうか? ちょっと思いつかないので、気づいた方は教えて下さい。
ここでは、日常の話し言葉にメタ化の概念を取り入れた文化がある、ということを紹介したかったのです。
絶え間なく性を放電する人間のために生み出された避雷針こそ、エロティシズムなのだ。しかしあらゆる人間の発明物と同様に、それは諸刃の剣である。それは生命だけでなく、死をもたらすから。
ここにエロティシズムの持つ両義性がある。つまりそれは、「抑圧であると同時に解放であり、昇華であると同時に歪曲でもある」のである。とすれば、古今東西の宗教にエロティシズムが多かれ少なかれ関与しているのは、驚くべきことではなかろう。
火は人間に近すぎる。
近すぎて見えないことがある。
火だけを切り取って、あらゆる視点から分析と言語化を行った本書は、人間の本質に迫る上でも、たいへん参考になる。
これまで見てきたように、火は、人間に安全をもたらしたが、災害を引き起こすこともある。火に限らず、水もそうだし(2019年の台風19号で痛感)、自然はそもそもそこにあるだけで、意味を生み出すのは人間なのだ。
この火の二面性は、火とともにある人間を映し出す芸術を生み出す際に必要であり、人類のエロティシズムを射影するのに、身近でかつ最もふさわしいものだった、というわけだ。あおぎり.icon
愛の哲学は古代ギリシアで生まれた。
結局、愛の哲学の創始者であるプラトンは、愛の対象である人間にその主体性を認めていないことになる。そこには相手の自由意志は存在しない。とすれば、それは真の意味での愛の哲学ではなかったのだ。「彼の哲学は実を言うと愛の哲学ではなく、エロティシズムの昇華した(そして崇高な)形なのである。」(パス)
プラトンは、性愛を「カッコに入れ」たエロティシズムに対して、さらに哲学に昇華した。
しかし、パスは、それは愛の哲学ではない、という。
さて、これまで古代ギリシアとローマの愛に関わる文学流れを辿ってきた。それらは素晴らしい作品であったが、残念ながら〈愛の教義〉を掻いていた。それが初めて誕生するのは、一二世紀フランスのプロヴァンスの詩においてである。
プロヴァンスの詩は三つの特徴を持つ。
(次ここから再開)